5歳で子供を卒業した私 家事に「時間割」(馬 英華氏の経営者ブログ )

(馬 英華氏の経営者ブログ 2016年7月15日版)

きょうだいがいる人は、小さなころ、自分の境遇をなにかしら不公平だと感じたことが必ずあると思います。もしあなたが両親にとって最初の子だとしたら、下のきょうだいに対し「気楽でいいな」とか「自分はすぐしかられるのに、弟や妹はかわいがられてずるい」と、きっと感じたことでしょう。

中国には夫婦1組の子供を原則1人に限る「一人っ子政策」がありました。1979年に導入され、去年正式に廃止が決まりました。今は2人までよいとなっています。私はこの政策より前に生まれました。我が家には長女の私、2歳年下の弟、5歳年下の妹がいます。

■望まれなかった子供

私の両親は、結婚後すぐに子供を持ちませんでした。特に欲しくなかったのでしょう。3年くらい二人だけで暮らしていたのです。当時の中国では異例のこと。結婚すれば即、子供を持つのが当たり前という風潮のなか、母へのプレッシャーは相当にあったようです。まだかまだかと義理の母や親戚に言われ、もしかして不妊ではないかとまで責められたようです。ようやく妊娠したところ、今度は周りから「ぜひ男の子を」と期待が高まります。

そんななか私が生まれました。祖父母や両親の期待にそわぬ、女として。

落胆しただろう母に、追い打ちをかけたのは父です。産院に駆けつけた父が、看護師さんから「お姫様ですよ」と言われた瞬間、母や私を見舞うことなくそのままきびすを返して帰ってしまったのです。その後3日間くらい姿を見せなかったと聞きました。父は男の子が欲しかったのでしょう。男尊女卑の考えに染まっていたのです。
母は、そんな父に対し深く傷ついたのと同時に、自身も男尊女卑の考えを過剰に受け入れたのです。同じ考えを持つことで夫の心をつなぎ留められるとでもいうように。でも、その後ずうっと、母はこのときの父のそっけない態度を忘れず、夫婦げんかのときによく持ち出していました。

中国の産院はさほど親切ではないため、赤ちゃんを授かった家族や親戚は、妊産婦をとても大事にします。生まれた子が男児なら、なおさらめでたいとされ、出産後1カ月くらいは「たっぷり栄養を取って」という思いをこめて、卵やにわとりを贈るのがならわしだったそうです。

ところが母に家族のお祝いムードはなし、卵やにわとりなどの贈り物もなし。ひとえに、産んだのが女児だったためです。母にしてみればなんとさびしい、望まれない出産か。頑張って産んだのに、私はこんなに惨めな思いをさせられている。この子が「元凶」なんだ――。

私には何の罪もないのですが、私に対する冷ややかな母の態度は、この辺りに一因があると思います。「このままでは終われない」と思ったのか、2年後に次の子を産みました。待望の男の子です。数年後、さらに女の子を産みました。妹です。私が5歳のときでした。

■母から課された家事の数々

長女として生まれたことが、私に決定的な運命を与えました。呪縛を背負ってきたといって過言ではありません。私は5歳にして、子供時代を卒業しました。

妹の産声を聞いたその日から、私は妹の「母」になりました。赤ちゃんだった妹をあやし、食べさせ、おしめを替えました。母が働いていたからです。住んでいた村に組織があり、母は構成員として、同士たちとともに畑仕事をしていました。土地はもちろん国の所有です。ここで働いて給料を得ていました。父はもともと大連市の戸籍だったため、デパートで仕事を持っていました。当時守衛を担当していたので、夜の時間帯に自宅にはいませんでした。

母はかなりの量の家事を私に要求しました。今でもよく覚えています。私が小学生になると、下校時間から夕方までびっしりと、時間単位で家事を割り当てました。8歳になるかならないころです。

家事のスケジュールはこんな感じです。学校から帰ってすぐ、午後2~3時ごろ、にわとりへ餌やり。4~5時ごろに豚へ餌やり。その間に、1キロくらい離れた川へ洗濯に行く必要がありました。戻ったらその後に夕食の支度が待っています。母が帰ってくるまでに夕食の準備ができていないとしかられました。やり方が悪いとののしられ、しょっちゅう頭をこづかれたりたたかれたりしました。しまいには痛みも感じず平気になっていましたが……。

食事の支度は大変でした。かまどの上に重くて大きい中華鍋を熱して調理するのです。かまどは昔ながらの機構で、だれかが常に下で風を送らないと火が持続的にたちませんでした。手慣れた成人女性なら風を送りながら調理も一人でできるところ、私は年端もいかない子供で、踏み台にのってやっと調理できるくらい。送風の係が必要でしたが、やる気があったものの妹は3歳くらいで、小さくて戦力になりません。1時間のうちに、家族全員の夕食の準備をすべてこなすのは至難の業でした。

そんなとき弟を働かせようと声をかけるのですが、彼は下校するなりかばんを放り投げ、オンドル(一段高くなって温かい場所)に寝そべっています。手伝ってと言ってもいっこうに聞いてくれません。弟は、何もしなくても、自分に対しては母が怒らないと知っているのです。

腹が立ち、妹と結託し、彼の頭と足を持って体を持ち上げ「そーれ」とオンドルから振り落とすこともありました。してやられた弟がいやいや手伝うこともありました。そんなドタバタを、彼の力が勝る中学前までよく演じていました。

家事の途中に、ほかのことに夢中になったり、弟や妹と鬼ごっこなどに興じたりして、取りかかっていた家事をすっかり忘れてしまうこともありました。そんなときは帰宅した母に見とがめられ、よくどなられたものです。時々母はほうきを持ちだして、私たちをぶとうと追いかけるときもありました。まるでマンガの世界ですが、本当に「このー」とか言ってほうきを振りかざす母を尻目に、くもの子を散らすようにきょうだいで家の中を走り回るといった騒動もありました。

母がよく怒るので、私たち子供がいなくなったらどうなるだろうと、3人で夕方すぎても家へ帰らず、外から、母が私たちを探す様子をうかがうこともありました。悪態をついて、でも心配で私たちを探すため家の外に出た母を見届けると、みんなで家に忍び足で戻り、寝床に潜り込んでぐうぐうと寝ているふりをしたものです。

■同級生のお母さんの涙

近所の川での洗濯も任されていました。ほぼ毎日、家族の洗濯物を金だらいに載せ、歩いて川まで行ってそこで洗濯するのです。その川の一角は近所の共同洗濯場で、女性たちがだんなの悪口などお互い言いながら服を洗っていました。そんな大人の女たちに交じっておしゃべりを聞きながら働きました。

川べりには洗濯するための台となる岩が置かれてありました。夏はその岩の近くにイスのように置かれた石に腰を下ろし、足を川にひたしながら洗いました。

これが冬になると、洗濯は過酷になります。大連の冬は刺すように凍える寒さで、洗濯は容易ではありませんでした。

厚く氷が張ると洗えないので、手に石を取り、岸辺に接している一番へりの氷を砕いて穴を開けます。とても厚みがあって乗っても氷は割れないので、洗濯するときは氷の上に乗って岸の方を向き、その穴をのぞき込むような、ひざまずいた格好になります。穴から服を通し、氷の下に横たわる水に浸して洗濯するのですがその冷たいこと……。なにより、洗濯し終わるまでの時間、ずっとひざまずいた姿勢で氷の上にいるわけですから、体の芯から冷えてしまうのが常でした。

ある冬の日、洗濯しに行くと、同級生のお母さんと会いました。彼女も洗濯に来ていたのです。私が石を使って氷を砕こうとしても、子供の力ではいっこうにできなかったので、そのおばさんが見かねて私のために穴を掘ってくれました。

私はゴム手袋もせず、素手でぬれた洗濯物をつかんでいました。それを見ながら「ねえ、おばさんにもあなたと同い年の女の子がいるのよ」。おばさんは続けます。「うちの娘には、こんなこと絶対にさせない。全身が冷えてしまっては、将来、きっと影響がある。大人になったときにひざや関節が痛んでしまう。とても体に負担になるのよ。おばさんは、こんなことをさせるあなたのお母さんが理解できない」。ふとおばさんの顔を見ると、涙ぐんでいるではありませんか。

おばさんの涙ながらの言葉で初めて、私は他の同じ年ごろの子供たちと違うことをさせられていると知ったのです。日々、追いまくられるように家事につぐ家事をしていても、子供だったので「そういうものなのだ」と自然に思っていました。それが、私はなぜこんなことをさせられているのか、疑問が胸に芽生えたのです。その疑問が決定的になったのは、やはり冬の日でした。そのお話は、次回に。


大量の家事を決められた時間内に終わらすことは、子供にとって苦行でした。ただ、物事の段取りを考え、効率的に動くことが習慣になりました。そのなかで失敗したり、想定外の状況に陥ったりしても、なんとか知恵を絞って乗り越えることで、問題を解決する力が磨かれていったといえます。

あの家事の山と、母のののしりのなかから学び取ったこの能力は、今の私の財産になっています。

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