商才のDNA受け継ぐ 中学生で既に“営業”(馬 英華氏の経営者ブログ)

(馬 英華氏の経営者ブログ 2016年6月17日版)

遼寧省大連――。私の出身地です。人口約600万人を擁し、経済発展著しい地域で、日本企業も多く進出しています。歴史的に日本との関わりは深く、日露戦争の後、ロシアの租借地から日本に譲渡され、関東州となった経緯があります。終戦までは日本の植民地で、「ラストエンペラー」として知られる溥儀が日本政府の支持を受け、満州国皇帝の座に就いていました。そんな歴史を色濃く残しながら、中国東北部のIT(情報技術)や製造業の拠点として大きく発展しています。

私が来日後、進学に備え学費や生活費を捻出するため非常な苦労をしたことは前回書きました。アルバイト募集広告を見て100件電話しても切られ続け、1件話を聞いてくれるところがあるかないかという困難のうえ、やっと得たバイト先の上司にいじめられ、差別的な扱いを受けて追いつめられていたときです。

東京エレベーター馬英華 子供の頃の写真 私は日本へ就学生として来日し、日本語を勉強する一方、大学進学のために学費をため、生活費も自ら稼いでいました。きつい生活でしたが、中国の大学に籍がなければ、むしろ迷いはなかったと思います。というのは、大連外国語学院(大学)に在籍していた私は、将来、教師になる道が可能性としてまだ開けていました。同大は中国でも指折りのエリート校で、卒業生は、教職を約束されていたのです。

そのような優遇された地位が自分を待っていると知っているときに、しかも私の一存で決められると知っていながら異国での過酷な生活――貧乏な国から出稼ぎに来ていると日本人から侮蔑を受けるなかバイトをはしごする――に耐えるのは、余計に苦しいことでした。正直いえば、時折、迷いも生じました。「このまま帰ってしまおうか。大学の先生になれるのだし」

それでも日本に踏みとどまったのには理由がいくつかあります。「中国へは絶対帰らない」という覚悟を養ったのはほかならない、大連という街、そして私の家族です。これを説明するには、私の家族の歴史を追う必要があるように思います。

■父のビジネスを「営業支援」

私が大連外国語大学に進もうと考えたのは、高校2年生のときです。進路を見極め目標設定したのは、「これからは外国語を学ぶべきだ」と予見していたからです。中国は今より絶対多くの外国人が訪れる時代を迎えるという確信がありました。

なぜそう思ったのかというと、一つには新しい国策がありました。中国は最高指導者だった鄧小平のもと「中国は貧乏から脱出しよう。もっと経済を開放しよう」という改革開放路線をすでに1978年に打ち出していました。同氏が言った「黒でも白でも、ネズミを捕る猫はいい猫だ」で知られています。その影響はドラスチックで、まだ高校生だった私にも、大きなうねりが感じられたほどです。

80年代に入ると70年代と打って変わって、今までにない自由さというのでしょうか。もう「お金持ちになっても罪じゃない」という意識が広まったのです。実感としては、80~81年ごろにその機運がぐっと盛り上がりました。身近ないい例が、私の父です。70年代後半、父は個人で貿易会社をつくって、石炭の商売を始めたのです。豊かになってもいいと国が正式に宣言する、数年前のことでした。私が高校3年生になった82年、個人事業の自主権の拡大が採択されました。私営企業のあり方が改革され、起業も、事業経営も自由度が増したのです。

大連より北に300キロほど行ったところに鞍山という製鉄・鉄鋼で有名な都市があります。今でも鞍山鋼鉄などの大手国有企業があります。父が始めたビジネスは、ここにある炭鉱と契約して石炭を買い、貨物列車で当時住んでいた大連近郊の金州の街へ運び、それを小口顧客へ売るというものでした。顧客は学校、国有企業、一般の人々でした。

その炭鉱から営業マンたちが父と商談をしに、よく自宅に来ていました。その当時、私の家の周辺には適当なレストランが数少なく、営業マンたちもお金がないから、商談でやってくるたび、父と私がもてなしました。この席で価格交渉をしたのです。母は顔を出さずに階下で食事の支度にかかりきりでした。私はまだ12~13歳の中学生。それでも立派な「馬家の営業ウーマン」でした。学校がない土曜日や日曜日など、よく交渉のテーブルにつきました。

私は不思議と営業マンたちに好かれました。まだ幼稚なところがあったとはいえ、大人の話がよく理解でき、なおかつ対応もできたからでしょう。面白いことを言っては彼らをげらげら笑わせたり、でも肝心なところで話に口をはさんだり。一人前に「これでは(石炭購入の)値段が高すぎる」とか、「うちの親がもうからないから、あともう10円とか20円下げて」とか、「そうしてくれたらまた、ご飯を一緒に食べましょう」とか……。「こうしたらよいのでは?」といった提案もしていました。営業マンと父が、価格が折り合わず丁々発止の議論を戦わせているとき、お互いが主張する価格のまん中を取って「これならけんかしないで済みますね」などと言うのです。そうすると彼らが笑って、もう分かった、この子にかかったらそうするしかない、そうしましょうというやりとりに落ち着いたものです。

今はそうでもありませんが、私が小さかったころ、中国では大事な来客をもてなすときは、ふつう、女・子供は同席しませんでした。家長(その家の夫)とお客が食べ残した食事をあとでいただくという風習でした。でも臆さない私は、自然と商談の場に存在していました。北から来る炭鉱の男女は、強いお酒が大好きでした。お酒を飲みながら商談をするうち、彼らはどんどんテンションが上がります。お酒が飲めない父を尻目に、彼らは私の話に手を打ち、笑い、気がつくと商談がまとまっているという感じです。

自然に交渉に参加し、自然に大人と話をして、それも的外れにならず役立つ私を、両親はたいへん重宝していました。私も大人と話ができるよう、父にちゃんと来客の名前や性格、家族構成を教えてもらって、交渉の席に臨みました。

この「商談」が私の原初のビジネス体験に違いありません。石炭1トンがどのくらいの価格で、それをどのくらいで売ると利益が出るかといった相場感覚を磨き、結果、収入につながることを肌で学んだのです。

■いち早く「万元戸」に

当時、石炭には非常に大きい需要がありました。寒い時期、ストーブに使う暖房用途だけではなく、調理にも石炭が必要でした。日常に不可欠なエネルギー源だったのです。

まだ公共交通網が発達しておらず、自家用車もそうはない時代。石炭を入手するのに、どこのうちでも企業でも、独自のルートを持っていました。とはいえ安定した確保にとても苦労していました。どこかの街から買い入れるのが一般的ですが、一つの街から別の街へ行くのに列車くらいしか手段はありません。それも運行状況の信頼性が低いのです。目的の駅についたとて、真夜中だったり、駅から目的地までの交通手段がなかったりで使い勝手は悪い。徒歩しかないのです。使える電話もなく、列車が遅れるといったときの連絡手段はありません。

父は、その不便なところに目を付けました。デパート勤務だったので、石炭の需要が大きいことと、消費者の間で、それを入手する手段が限られていたことを知っていたのです。

石炭を仕入れたいという顧客を回り、何百キログラムくらい必要か事前に聞いて受注しておきます。それを元に購入し、貨物列車の1車体を借り切り(2~5トンくらいでしょうか)、一昼夜かそれくらいかけて鈍行で運んできます。列車の到着時間や場所など詳細を顧客に伝えておき、荷が到着すると即時で引き渡すのです。

石炭を安置するための大きいスペースを駅に確保していました。顧客が今か今かと列車を待ち構えていて、到着すると同時にはかりで重さを量ってめいめい引き取っていきました。トラックは走っていましたが、まだ馬車や牛車も使われていました(私のおじも当時は馬を3頭ほど飼っていて、たまに遊びにいっては体をなでたものです)。

石炭は飛ぶように売れました。我が家のビジネスは、街で唯一の調達場所を提供したのです。物流網が未発達な時代に遠距離から必要物資を運んで地元で売るという父のアイデアは大当たり。ただ、売り切るように見極めが必要で、難しい面もあったようです。

石炭ビジネスのおかげで、収入は飛躍的に増えました。我が家はいち早く「万元戸」になりました。簡単にいうと「お金持ち」です。当時1万元=10万円くらいの貨幣価値でした。デパート勤務時代に店員として得ていた月給は60元(約600円)だったそうです。それと比べれば1万元は非常に価値がありました。

当時はその会社のことを公にできませんでした。あるとき、公安局が会社のことを聞いて、調査のためといって会社の名義人だった母を1週間くらい拘留したことがありました。いろいろ尋問を受けたそうですが、結果的には罰金もなく釈放されました。違法ではなかったためです。とはいえ両親はいつも心配しながら商売していました。こうした気苦労は耐えなかったようです。

■曽祖父、船をこいで日本と貿易

父は親日家でした。その昔、大連の日本人学校に通った経験があったため、「おはよう」とか「起きろ」とかの日本語を小さな私に向かって時折使っていました。後に当時の話を聞くと「日本人学校は厳しかったけど良かった。先生方はきちんとしていて、いろんなことを勉強できた」と言います。日本に関して悪く言う言葉を父から聞いたことがありません。

こうした日本へのよい印象は大連の持つ大きな特徴ではないでしょうか。瀋陽の南側はそうした印象を持つ人々が多くいます。一方、北上して吉林省長春や黒竜江省のハルビンまで行くと日本に対する見方ががらりと変わります。特にハルビンは、旧日本軍「731部隊」の実験施設跡など歴史の記憶もあるからです。

我が家にはもう一人、日本とゆかりのある伝説の人物がいます。私のひいおじいさん、曽祖父にあたる人です。日本との貿易で大成功した商売人だったといいます。小さい船に乗って、豚やとうもろこし、大豆などの物資を日本に売るため運んでいたそうです。今でいうと「国際貿易」です。定かではありませんが、時代を考えれば1910年代のころ。行き先は長崎だったそうです。

よく聞かされたのが、航海中、海の真ん中で「豚が海に逃げちゃった」話。パニックに陥った豚が暴れて、船から落ちたのでしょう。日本へは人力で船をこいで航海したと聞かされました。本当だとしたら、ずいぶん命知らずの冒険家です。

曽祖父が日本から持ち帰ったものの一つは、なんと蓄音機。ちょうど日本ではやっていたらしく、レコードも合わせて大枚はたいて持ち帰りました。それがとても自慢だったそうで、背中にしょってあちこち出向き、それを手で回しては即席のコンサートをしたそうです。めずらしいものをみんなに見せたい、音楽を聴かせたいという思いだったのでしょう。

商売へのチャレンジ精神や進取の気性のDNAは曽祖父から1代超えて、父に引き継がれたのではないかと思います。時代を読み、人より先んじたビジネスにリスクをとって踏み入れる勇気。私にもその血が流れています。

当時のことをあまり話そうとしませんが、私が生まれたすぐ後に、父は文化大革命の影響で突然職を失うなど、時代の荒波にもまれてきました。大連市内から田舎に行かされ(下放)、だれもやりたがらない、くみ取り式便所から汚物を畑に運ぶ労働をした時期もあったそうです。

都市と田舎は、日本の人が想像できないくらい違いがあります。大連市内はロシアと日本の文化を色濃く残し、建物も和洋が美しく調和する、格別におしゃれな街です。一方、私たち家族が移り住んだ場所は、低山に囲まれ、トウモロコシ畑が広がっていました。リンゴ園もありました。山から時折、キツネやオオカミが出てくるほどの田舎で、人々の飼育するニワトリを襲ったりすることもありました。夜更けにキツネの鳴き声が聞こえてくると、それっとばかりに起きて、ニワトリが襲われないよう、外の守りを固めたものです。

でも父は逆境を嘆くよりは、思考を切り替え、すぐに問題解決・改善するにはどうしたらよいのか見つけようとするタイプです。処世術でもあったのでしょう。商売のネタを見つけようと、あきれるほど雑多な品々を父はよく自宅に持って帰ってきては、あれこれ思案していました。長女の私は、よく父の実験台になり、一緒に試行錯誤をしたものです。その末に、石炭にたどり着いたのだと思います。

父の間近で、商売とはどういうものかをつぶさに見ていた私は、中国は、これから絶対変わると思っていました。豊かになる人が多くなる、ならないはずはない、という確信です。改革開放路線を推し進める我が国に、きっと、なだれを打って外国人が来るようになる。将来、教職に就くために数学や地理を勉強するよりは、外国語を学んだ方が役に立つと、はっきりと認識しました。それが高校2年生のときでした。であれば、日本語を勉強すべき――。商売のイロハを自然に覚えていったように、私にとって、日本語を学びたいという思いも、とても自然なことだったのです。


そうして来日したのに、日本のいいところをまだ一つも見ていませんでした。日本の素晴らしいところや、終戦後、約40年でここまで豊かになった経済的奇跡の秘密。どうしてもこの目で見たい、知りたい。学びたい。そのために日本の大学に入学し、法律を勉強してゆくゆくは弁護士になる、それがそもそもの来日目的でした。それなのに自分は日本語の勉強とバイトだけで過ごしていて、大学にも入学しておらず、学んでもいない――。

実質的な留学生としての人生の幕も開いていないのに、どうして中国に帰れるでしょう。どんな苦労をしても日本に残る覚悟でした。目的を達成していないうちに帰国したら、挫折感があるだろうと容易に想像できました。

もう一つ、私を日本にとどめたものがありました。母の存在です。私をあざ笑う、母の顔。これが「中国に帰る家はない」と私に決意させるのに十分な、強烈なイメージでした。帰国したらそれは母の思うつぼになってしまう。母との確執は、死闘といっていいほどでした。どういう意味か、次回にお話しします。

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