バイトで味わった底なしの侮辱、そして救い(馬 英華氏の経営者ブログ )

(馬 英華氏の経営者ブログ 2016年6月3日版)

日本へ来る外国人が増えています。2015年の訪日外国人数は2135万人。日本政府は、東京オリンピックがある2020年に4000万人という目標を立てています。

今は外国人はそんなに珍しくないし、日本人の方も、考え方や文化の違いがあると多少は理解して、受け入れる態勢をつくろうと急いでいます。でも私が来日した1988年当時はまったくそんなことはありませんでした。日本政府観光局のデータでは、1988年の訪日外国人数は235万人程度。今のほぼ10分の1です。まして、観光客としての中国人はほとんどいなかったはずです。

私は就学生というステータスでした。観光や一時的な出張と違って、日本に住み、日本語を学ぶ語学学校の生徒を指します。出身国の通貨と日本円との貨幣価値が違うので、学費や生活費をまかなうために、多くは仕事をすることを余儀なくされました。

東京エレベーター馬英華の写真中国人民元と日本円がどのくらい価値が違うか、具体例を挙げましょう。私の父はその当時、大連郊外のデパートに勤務していました。日本円に換算すると月収は約1200円。一方、同じ時期の日本での大卒初任給は15万円強だったそうですから、およそ128倍の開きがあります。私の家は裕福でしたが、両親から経済的支援は受けないと決めていたので、自分が日本で暮らす費用を丸ごと捻出しなければなりません。

当時日本はバブルの時期だったとはいえ、生産年齢人口の割合は今より高く、職はそう簡単に見つからない状況。一介の外国人学生が「バイト」という形態でつてもなく職を得るのは至難の業でした。

優雅なクラシック音楽、ワインレッド色を基調にした内装――。やっとの思いで最初に得たバイトは、秋葉原にあった雰囲気のいい喫茶店のホールスタッフでした。応募や面接をあちこちで断られたあと、ようやく採用がかなったのです。日比谷線の秋葉原駅で地上出口を出て、まっすぐ歩いて右側にありました。割合に大きな喫茶店で、キッチンとホール合わせて8人くらいの従業員がいました。勤務時間は毎日午後1時~5時まで。ランチ帯から、午後遅いお茶の時間に当たります。

その時の時給は500円でした。慣れると50円ずつ昇給し、辞める直前には650円になっていました。東京労働局の資料によると、東京都の最低賃金は88年当時で508円(今は907円)ですから、最低賃金で働いていたと想像してくだされば分かりやすいのではないでしょうか。

主な客層はビジネスパーソンで、おそらくは午後の営業活動の合間に一休みする、外回りの営業マンでした。「24時間戦えますか」というコマーシャルがちょうどはやったころで、まさに企業戦士という人々でした。

■上司からいじめに遭う

仕事と戦っていた人たちをお客に、私は「いじめ」という名の闘いのただ中にいました。今でいうなら「パワハラ」だったのかもしれません。その人物は私の上司。といっても私の採用を決めた人ではありません。この上司がホールを取り仕切る権限を持っていました。身長は低く、とりたてて目立つような風貌ではない、50歳に手が届こうという年格好の男性でした。お客からは見えないキッチンで、彼から毎日言葉の暴力を受けました。時には、本当に暴力を振るわれました。

お昼どきはお客で混み合います。キッチンもホールも、従業員はてんてこ舞い。私のメーンの仕事は配膳で、両腕にお盆を載せ、忙しく立ち働きました。運ぶものはスパゲティやスープ、コーヒーです。

「走れ! 早く走れよ、早く」

キッチンで、毎日、毎回、何度も何度も、怒鳴られました。私の配膳の仕方が遅いというのです。私にも言い分はありました。両腕にお盆を、しかもその上に食事や飲料をいっぱい載せて、走れるでしょうか。混んでいる店内で、バランスを失ってお盆からものをこぼしたりしたらたいへんです。速足がせいぜいです。

キッチンに戻る度に走れとなじられ、食事をお盆に載せてホールへ向かう際にも、背後から走れ走れと追いうちをかけられるので焦ってしまい、一度、本当に小走りに運んだことがありました。案の定、がっしゃーん。派手な音をたてて、お盆の上のものが滑り落ちました。スープがとびはね、近くに座っていたお客のビジネスマンの靴にかかってしまいました。

「申し訳ありません!」平謝りに謝りました。幸い、そのお客は大丈夫だと言ってくれ、トラブルには発展しませんでしたが、その後はこってり、上司に絞られました。走れと言われたから走ったのに、この始末です。どうしたらよいのか、私には分かりませんでした。

一度、後ろから脚を蹴とばされたことがありました。想像ですが、多分、私のお尻を蹴ろうとしたのでしょう。うまく的中せず、脚に当たったのです。

■「草、食っているんだろ?」

そんな日常のなか、もっとこたえたのは中国や中国人への侮蔑でした。

「中国へ帰れ。貧乏な中国へ、早く帰れよ。大学へ進学するなんて言っているけれど、本当はたんまり稼ごうとして来たんだろう?」

「あんたのような中国人が日本人の職を奪っているんだよ。分かる?」

「中国はえらく貧しいらしいな。みんな、草、食っているんだろ?」

次第に差別的な口ぶりになり、次から次へと聞くに堪えない言葉を浴びせられました。つたない日本語で「それは違います。私は進学するために日本へ来ました」と言っても、ばかにしたような顔をして聞いてくれません。「貧しい国から出稼ぎに来た女」と頭から決め込んでいるのです。

反論したくても、来日してまだ日が浅いころ。うまく言い返す語学力がありません。表面的には明るく振る舞い、どなられても、いやな言葉を投げつけられても、元気良く「はい! 分かりました」と返していました。反論したとて、生意気な態度だと思われ、上司の神経を逆なでし、クビになってしまう。それだけはだめ、それだけは。

顔では笑っていても、心では泣いていました。「なんでこんな仕打ちを受けるんだろう」「耐える意味はあるのだろうか」と自問しました。別の仕事を見つけたかったのですが、外国人など論外で、探すのがとても大変だったのです。バイト募集の広告を見て電話をかけると、一言二言話しただけでガチャッと切られたものです。もう、それに慣れてしまい、私にとっては普通のことになってしまいました。100件あたって1件、話を聞いてくれる担当者がいるかいないかというほど、断られ続けました。

ですから、ほかにバイト口があればとっくに辞めていたと思います。中国語を教える仕事があれば願ったりかなったりでしたが、当時、中国語に興味を持つ日本人はほとんどいませんでした。卑劣ないじめについて、相談できる人もいませんでした。

「自由がない国! 日本を見てよ。豊かで車だってこんなに走っているんだから。車を見たこと、ある? 中国は、自転車しか走ってないんでしょ」

「人民服って、硬くて着るとごわごわしているって聞いたよ。本当?」

「貧しくないって、うそ言うな。じゃあなんでここで働いているんだよ」

私がめげずに、しかも辞めないことを、余計うとましく思ったのでしょう。彼の侮蔑の言葉はエスカレートし、際限なく続きました。動揺を抑えられず、店のトイレに駆け込むことも何度もありました。こみ上げるものを落ち着かせ、気を取り戻さねばならなかったのです。

私が住んでいた場所は、巣鴨のぼろぼろのアパート。本当に崩れそうな木造家で、廊下を歩くとぎしぎし、みしみしと足音がしました。気をつけても響き渡ります。住人の足音もいや応なく耳をつんざくところでした。学校と仕事を終え、巣鴨に帰り、ぎしぎしと音の鳴る廊下を渡り、ドアノブを回して暗い部屋に入ります。ドアを後ろ手にそっと閉めるたびに、涙がせきを切って流れました。

人前で泣いたらそれは自分に負けることになる。自分の弱さをさらすことになる。毎日が自分との闘いでした。何度「中国に帰りたい」と思ったでしょうか。前が見えず、どこまで頑張れるか自信も、確信もありませんでした。涙がひとしきり流れてしまうと「もう日本を離れて、アメリカへ行こうか」などと、進路について考えをめぐらしました。「今すぐこの生活を捨てて、来月帰ろう。いや、あしたでもかまわない。こんなバイトなんか、辞めてやる」と夢想することで、かろうじて心の平静を保っていました。

肉体的にも疲れていましたが、何より、人間としておとしめられる言葉をいつもいつも投げつけられることが、私の精神をすり減らしていました。彼が日本人の代表に思えてなりませんでした。彼の言葉は日本人の言葉、日本人は全員こうなのだという苦い考えが私をとらえ、息苦しくさせました。

「地獄のよう」――。そう思いました。

■地獄の中の救い

忙しいこともあって同僚とあまり話すことはありませんでしたが、一人だけ、話しかけてくれる40代半ばの女性がいました。週に2~3日、勤務していたと記憶しています。2人のお子さんがいる母親で、学費の足しになればとパートで働いていると話していました。

上司から怒鳴られ、涙目になってキッチンにいると、「無視、無視! 彼は狂ってる。ああいう物言いをするのは彼だけだから。みんなじゃないのよ」「あなたはよく頑張っているわ。あしたも来てね」となぐさめてくれました。仕事に行くと「マーちゃん(私のこと)、もう来たの? 元気、おなかすいている?」とか、声を掛けてくれました。仕事場に来ると彼女の顔を探すのが日課になりました。

彼女とのあいさつやたわいない会話が、なんという癒やしになったことか。人間らしい会話とは、このようなものを言うのではないでしょうか。

もう一つの仕事場だったのが巣鴨にあった和風レストランです。午後6時から勤務開始でした。秋葉原の喫茶店での仕事が午後5時に終わった後、大急ぎでJR(国鉄から民営化して間もなかった)に飛び乗り、15分間山手線に揺られ巣鴨で下車。仕事場まで走っていき、店員用の浴衣に着替え、足袋もはいて店に出ました。

和風レストランには着物を上品に着こなす、60歳を超えたくらいのママがいました。浴衣を右前に着ることを教えてくれたりして、優しく、「お母さん」のように接してくれました。注意は時々受けましたが、なぜ私のやり方が良くないのか説明してくれたので納得がいきました。「マーちゃんは頭がいいね、偉いね。とてもよく気がつくね」。ママはよく褒めてくれました。

ここではてんぷらや煮物、すき焼きなどまかない食が出ました。納豆などものによっては私が食べられないのを見ていたので「今日は何食べる? この前これをいっぱい食べたからこれがいいね」などとママには気に掛けてもらいました。

深夜までの立ち仕事は激務でしたが、うれしかったのは、お客とのやりとりや常連が付くようになったこと。「マーちゃんどこから来たの? 大連か、出張で行ったことあるよ」という男性客。「マーちゃんの顔を見に来たよ」という家族連れ。「京都行ったんだ。食べて」とお土産のお菓子を渡してくれる人……。

常連が増えるのを、ママはとても喜びました。私を普通の女の子として扱ってくれたママを喜ばせるのが、私の喜びにもなりました。

深夜に店を閉めてから、職場の仲間でカラオケに行くことがありました。ママの娘さんが近所でスナックを経営していたのです。「ルーーー」で始まる菅原洋一の「1990年」や石川さゆりの曲をみんなで歌ったのを覚えています。最初は元気に歌っているのですがすぐに睡魔に襲われ、ママや同僚、大音響の音楽がすーっと意識から遠のき、どうしても最後まで起きていることができませんでした。宴もたけなわのころ、ソファに横になり、泥のように眠るのが常でした。

カラオケが済むのは深夜1時半ころ。「さ、もう帰りましょう」と促され、眠い目をこすりながら帰途につくのでした。翌朝、というか数時間後の4時ころには起きて、別の仕事へ行かなければなりません。その後には日本語学校で授業が午前中にあります。お昼すぎには秋葉原で罵倒が待っています。


秋葉原でのバイトは半年間続けた後、別のもっとよい条件の仕事を見つけたので辞めました。「マーちゃん」と呼んでくれた同僚の中年女性から、あるとき上司についての話を聞きました。当時彼は、離婚していて、子供と会えない状況が続いていたのだそうです。

今となってはこの上司の顔も名前も思い出せません。私にした仕打ちは生涯忘れませんが、彼なりにつらい私生活を送っていたのだろうと、今はほんの少しだけ、哀れみの気持ちがします。

優雅なクラシック音楽をバックに、耳を覆うばかりの侮蔑の言葉。強烈なバイト経験をしたその喫茶店は、今はもうありません。

精神的にぎりぎりまで踏ん張っていたのは、私には大学に入って弁護士の資格を取るという、確固たる目標があったからです。けれども、日本での生活をなんとしてでも成功させなければならない、別の理由がありました。

お気軽にご連絡ください。いつでもお待ちしています。03-3662-1139営業担当 椎橋(しいばし)恒成(つねなり)佐藤(さとう)がご質問にお応えします!!

受付時間 9:00-18:00 [ 土・日・祝日除く ]

お問い合わせ