夜明け前の暗い道 駅までの涙(馬 英華氏の経営者ブログ)

(馬 英華氏の経営者ブログ 2016年5月20日版)

前回は日本留学が幾重もの奇跡によって実現したことを書きました。あこがれの地、日本にやっとの思いで降り立ちました。22歳、新たな人生の始まりでした。

後の回でお話することになりますが、両親から経済的支援は受けていません。だれも頼りになる人がいないなかでの新生活です。最初の1年半は日本語学校に通うことになっていました。いわゆる「就学生」で、その先の大学進学の保証はありません。住んだところは東京・巣鴨。3畳ほどの本当に小さなアパートでした。来日して3日とたたないうちに、「日刊アルバイトニュース」を手にアルバイトを探し始めました。生活費と語学学校の学費は当然のこと、その先大学へ入学する際に必要になる学費も一切、自分で稼ぐ覚悟だったのです。

東京巣鴨の写真なかでもコンビニは時給が高くて魅力的でした。夜間だと割り増しがあります。問い合わせたところ、「お断り」。どこでもまず言われるのは「外国人を雇うのは前例がない」。さらに、「あなたを雇うと、日本人一人の仕事を奪うことになるんだ」「中国に帰れ」と追い打ちをかけられます。バイト先を見つけるのに非常な苦労をしました。

私を待っていたのは、日本の人たちのこうした心無い言葉でした。夢いっぱいで勉強しに来たのに、多くの人が私を「中国からお金を稼ぎに来ている」と誤解する。やりきれない思いでした。きっと「中国は貧しい」というとても強固なイメージが日本人にあり、それゆえ中国人と見ると、「貧しい国から出稼ぎにやってきた」と思い込むのでしょう。中国人、ひいてはアジア人とみると頭から「貧しい」と決めてかかる日本の人たちの態度に疑問を持ちました。

当時は80年代後半で、日本のバブル経済が華やかだった時代。中国はまだ本格的な経済成長を遂げる前でしたし、そう思われても仕方がなかったのかもしれません。でも実家が裕福だった私は、そんなふうに自分を見たことがなかったので、日本の人たちの考え方に触れたときはショックでした。

靴が欲しくて買い物に行ったときのことです。足に合わないので、何度か履き替えていました。近くでその様子を見ていた高齢の女性が、私を中国人だと思ったのでしょう。突然「早く中国へ帰れ!」と言葉を投げつけたのです。びっくりしました。一体どういうことか分かりかねました。試着をしていたから? それに対して腹を立てたのでしょうか。だれだって、買い物する前に試着をして、サイズが合わなければほかのものを試すでしょう。憎悪にも近い言葉を知らない人からかけられ、理不尽さに頭を殴られる気持ちがしました。

「日本の人は冷たい」「必死で日本のことを勉強しているのに、なぜ受け入れてくれないんだろう」「中国人のよくないイメージを私にぶつけるのはどうして」――。新しい環境に来たばかりで、相談できる人も限られています。「中国に帰れ」と突き放され、「お金を稼ぎに来たんだろう」とさげすまれ、自尊心はずたずたでした。日本は自由の国で、普通のことが普通にできるところだと思っていました。それなのに私は普通に見てもらえない――。際限のない劣等感が私を苦しめました。

私の出身地・大連は親日の人が多い地域です。私も日本にいいイメージを抱き、ゆくゆくは弁護士になるという夢を追い、意欲もあります。それなのに……。でも来日は奇跡の連続で実現したのです。来た以上は、どんなにつらくても我慢して、人生を切り開かなければなりません。新しい環境に慣れようと勉強に、仕事に、歯を食いしばって懸命に取り組みました。

■パンの香りだけで我慢

日本に来て間もないころ苦しんだものの一つに、食事が合わないことがありました。外食したくないのでご飯を炊き、野菜などをいためて自炊していました。自炊に無駄遣いは大敵。安くて何にでも使える食材といえば、マヨネーズです。おまけに保存がきいて便利。ちょっと酸っぱいし、おかずにもなる!――と喜んでごはんにかけ、野菜にかけ、いろんなものに付けて食べ、とても重宝しました。

アパートにはお風呂がありませんから、銭湯に通っていました。あるときふと体重計に乗ったところ、なんと、来日前に比べて10キロくらい増えているじゃありませんか。なぜこんな太ってしまったんだろう、と考えたところ、マヨネーズ以外の原因はありえないと気付きました。それ以来、マヨネーズをきっぱりとやめました。今に至るまでマヨネーズは口にしていません。飽き飽きしたこともあります。しかしそれ以上に、体が受け付けないのです。現物を見たりにおいをかいだりすると、当時のつらい思い出がよみがえるからです。

近所にパン屋さんがありました。パンのいい香りがお店の外にいつもふんわり流れています。それはそれは幸せに満ち、心が震えるくらいの香りでした。ほっとして癒やされました。ショーウインドーに近寄って、窓際から店内のパンをよく眺めたものです。いろんな形の、黄金色にこんがりと焼き上がったパンの数々。きれいに並べられ、とてもおいしそう。中国では見かけなかったパンたちでした。なんという眼福でしょう。

買おうと思えば買うことはできました。でも、自分は学費も生活費も稼がないといけない。大学でかかる費用もできるだけためておく必要がありました。自分にとって大事なものの優先順位を崩さない意志は強く持っていました。稼いだお金はすべてこちらの方へ回すのが先決ですから、1円も無駄にできません。パン1個はせいぜい200~300円くらいでしたが、それでも当時、日中の貨幣価値に驚くばかりの違いがありました。中国の物価から考えると、20倍くらい高いのです。パン1つに5000円を払うのと同じ感覚です。

パンのことは忘れよう。そう自分に言い聞かせましたが、足はどうしてもパン屋さんに向かいます。よくお店に行きました。といっても買うためではなく、香りを求めて、食べた気持ちになるためでした。そうして我慢をしたのです。

■背水の陣、極限の日々

学費と生活費を捻出するために、授業以外の時間は働きづめでした。すべて自分がなんとかしなければなりません。1日に3カ所の勤め先へ出向いて働きました。朝4時ころ、まだ暗いうちに家を出て、ホテルでウエートレスの仕事。終えて学校へ行き授業に出る。昼ごろに工場で部品加工などの作業をしてまた授業へ。夜は和風レストランで働きました。へとへとになって帰宅すれば深夜を回ります。

仕事で疲れてはいましたが、そもそも大学に受からないと意味がないわけで、石にかじりついてでも勉強して、大学受験に成功しないといけない。極限まで仕事をしながら、勉強時間を確保する戦いでもありました。背水の陣とはこのことです。それでも大学に受かるかどうか分からない。不安で胸が締め付けられました。

いつも寝不足で、振り返ると自分でもよくもまあ、こんなに働けたと思います。朝起きるのが心底つらく「私はなぜこんな思いをしてまでここにいるのだろう」と何度も自問しました。

毎朝、夜明け前の暗い道を一人で駅まで歩いて行きました。自分で望んだとはいえ、異国で、こんなにもつらい日々が私を待っていたとは。もう少し寝ていたい。あと少しだけ、ゆっくり寝ていたい。歩いていると、香ばしいパンが頭にぼんやり浮かびます。ああ、パンを食べたい。もう少し眠りたい。どうしてこんな生活なんだろう。

暗闇が、だれもいない朝の街をまだ覆っています。冷気が足元から上ってきます。涙がはらはら流れ落ち、目の前の風景がにじみだしました。冬には、その涙がすぐ冷たくなって、ほおも凍る思いでした。毎朝、声を押し殺し、泣きながら巣鴨の駅まで歩きました。駅に近づくにつれ、ライトで道が明るくなります。駅に来ればどんなに朝が早くても人はいるものです。「こんな顔を見られたくない」と涙をぬぐい、電車に乗りました。

この時期の私を支えていたものがあるとすれば、それは、なんとしてでも一人でやり抜かないといけないという意志でした。外国人だから学生ローンも簡単には借りられません。保証人になってくれる人もいません。仕事をさぼれば、即、生活が立ち行かなくなります。食べたいものを食べる自由と、朝にもう数時間寝られるくらいの時間的余裕を手に入れたいという気持ちと強烈な危機感との間で葛藤しつつ、危うい綱渡りをしているような日々を生きていました。

今だから言えます。自分には底なしに感じられたこの苦しさは、後の私に計り知れない強さを与えてくれました。どんな困難に行き当たっても、この時代の苦い涙があったからこそ耐えられるようになったのです。「あのときに比べたら、まだ頑張れる」と少しずつこらえられるようになり、徐々に自信に変わっていきました。泣きたいときはたくさん泣けばいい。それが後で、進むべき道を切り開く強さに変わるのだから……。涙も枯れるほど泣いた私は、泣かずに笑顔になれるときがなんと貴重で幸せなことなのか、誰よりもよく知っていると思います。

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