来日は運命 奇跡が次々と起こった(馬 英華氏の経営者ブログ )

(馬 英華氏の経営者ブログ 2016年5月6日版)

今回のブログから、私がどういう人間で、平たんでは決してなかった道をどのように歩んできたのかお話ししようと思います。私の経験が、大好きな日本の人々のお役に立てれば心からうれしいと思ったからです。


東京エレベーター馬英華 早稲田大学卒業式の写真 東日本大震災から5年たち、当時に思いを巡らせて書いたブログからほどなくして、今度は熊本地震が起きました。被災地の方たちは、今も不安な生活を余儀なくされています。心からお見舞い申し上げます。

東日本大震災の後、国外に帰れる場所を持っている外国人は相当数、日本から去りました。日本に数十年住んでいた私の知り合いの一人は、あの地震に心底怖い思いをして、日本の家を売り払って帰国してしまいました。日本の人はここが自分の国ですから意識することは少ないかもしれませんが、外国人にとっては、生活に対するリスクを減らすため日本から引き揚げるという選択肢があります。

私は日本に住み続ける選択をしました。私という人間を育ててくれた日本に恩返しをしたいと強く思っているからです。

1988年に留学目的で来日して以来、大学(早稲田大学と同大学院)時代を経て、中国で弁護士になる基礎をつくってくれました。日本で起業したエレベーター保守会社の社長になり、東京を拠点に仕事をさせていただいています。中国との懸け橋になりたいと、商法専門の弁護士として企業コンサルティングもしています。愛する家族もできました。

人生にはいくつか転機があります。私の場合、初期の転機の一つは日本へ留学したことです。その転機をお膳立てしたのは、立て続けに起こった奇跡です。日本への道は運命で、これらの奇跡はその運命に導かれたといえるくらいです。

■病からの劇的な回復

高校3年生のときに循環器系の病気にかかりました。血管が炎症を起こしたため、高熱がよく出て、足がひどくむくんで歩けなくなりました。ほぼ1年間、寝たきりに近い生活を余儀なくされたのです。大学受験を目の前に控えていた大事な年に、病気のせいで試験勉強ができず、歯がゆい思いでした。

ほとんど何もできない月日を過ごしているうち、「もう第1志望の大学には行かれない」と思い込みました。寝ていて勉強ができないのに、どうして名門大学に行かれるでしょうか。仮に志望したとしても、受かる気がしませんでした。第2、第3の志望校へ行く選択肢には魅力を感じませんでしたが、それもやむなしとあきらめの境地でした。

病気は良くならず、大きな病院へ行きました。すると医者は、「両親に言いなさい。若い娘さんで気の毒だが、このままでは、治すためには両足切断しかない」と言うのです。必死でほかに治すすべがあるかを探し、はりに精通しているおばあさんがいるとどこかから聞いて、親に負ぶわれて、その女性を訪ねました。
後に知りましたが、このおばあさん先生は、はりの名医でした。私の足を診て「もう少しで手遅れだった。でも大丈夫、治るよ」。すぐさま治療にかかりました。たくさんはりを打ち、悪血を出しました。流れる血の、なんと真っ黒なこと! 1週間くらいはりを続けると、赤い、普通の血に変わっていきました。すんでのところで、治ったのです。

受験前には健康診断があり、それに合格しないとそもそも受験ができません。高校の先生は、病気前まで私が勉強に打ち込んできたのを理解しており、なんとかして受験させたいと奔走してくれました。受験生の健康診断をする校医に頭を下げ「この子に試験を受けさせてください」と手土産を差し出しました。校医はそれを断り「心配の必要はありません。彼女はもう治っています」と、診断書にサインをくれました。

一つ目の奇跡でした。長く患っていた病気が、試験前に雲散霧消したのです。ふたつ目の奇跡は受験した後に起こりました。

■出願の背中を押した恩師

中国では、大学進学の際、志望校の出願は試験後に行われます。私は出願する意欲を失っていました。準備万全とはまったくいえない状態で受験したので、第1志望に行かれるはずがないと思っていたからです。

出願が締め切られる前日でした。高校では出願を受け付けていましたが、私は届けをあきらめ、自宅近くのアルバイト先にいました。川の土手の堤防で石を運ぶ、力仕事です。汗を流していたところ、父がバイクに乗って川辺に来たのです。「おい、何をやっている。出願しないのか。高校に行ってこい。でないと殺すぞ!」と激しい言葉で言いました。出願するため来校するようにと、連絡が来たそうです。父のけんまくに押され、我に返りました。だめもとでも出願しなければ。

とはいえ高校は本当に自宅から遠い場所にあります。徒歩やバイクで行かれる距離ではありません。1980年代当時、中国にタクシーはなく、走っている車も、荷物を運ぶトラックだけでした。困った私が考えついたのはヒッチハイクです。

道ばたでずっと待っていたら、1台のトラックが来ました。止めて話をすると、驚いたことに、私の高校が所有するトラックで、ちょうど帰るところだというではありませんか。もちろんだ、乗ってけ、という運転手に、ありがたくトラックに乗せてもらいました。

夜の9時ころ、高校に到着しました。出願が締め切られるぎりぎりのタイミングで高校に戻ったのです。驚いたことに、先生――校医に頭を下げてくれた恩師――は、私を待っていました。私は、第1志望に出願するのは難しいと思う、なぜなら病気であまり試験勉強ができなかったから、と伝えました。先生は「そんなことはない。あなたは実力あるから、絶対受かる」と請け負ってくれました。背中を押された気持ちで、大連外国語学院に希望を出したのです。出願をとりまとめた先生は翌日、教育長のところへ提出しました。

結果は合格。大連の名門校である同学院は、日本語教育では全国でナンバーワンといわれる学府です。70人くらいのクラスで私を含め3人しか受からなかったそうです。ここでも奇跡が起きました。そもそも、この大学に入らなければ日本語を学ぶことはかなわなかったでしょう。私は希望いっぱいで大学の門をくぐったのです。

■「前例がない」留学を決意

当時、日本経済は絶好調。海外へ観光客が大挙して行き、企業もすごい勢いで不動産を買っていました。今の中国と中国人のようといっていいかもしれません。私は、いったい日本はなぜこんなに変化したのか理由を知りたいと思い、私費留学を決意しました。

ただ、中国はそのときはまだ門戸を開いておらず、簡単に海外へ行かれない時代。「海外留学」という言葉もありません。公費(国費)留学生として、学校の先生などに時折外国に行く人がいましたが、普通の大学生にはほとんど機会はなかったのです。当時創立60年ほどだった学校は、私の私費留学の申請を前代未聞だといって驚きました。

3年生も終わるころでした。日本側からはすでに学生ビザが下りていましたが、パスポートがまだ取れていませんでした。パスポート取得のためには大学が発行する紹介状がどうしても必要です。学生からの相談を受け付ける場所は学生課。私は紹介状を書いてもらうため、ここに毎日足を運び、責任者の男性にお願いしました。答えは「そういう前例はない。紹介状は出せない」。私は国から学費を得ており、中国にとって大事な学生で、なおのこと留学を許可できないと言います。いったい何度この責任者に頭を下げたことでしょう。

ビザは出ているのにパスポートがないなんて。このまま行けなかったらどうしよう――と、憔悴(しょうすい)していました。門前払いされるようになっても毎日行くので、その責任者はあるとき、とうとう仁王立ちになり「千回来ても書かない。二度と顔を出すな!」とどなり、なぐらんばかりの勢いで私の腕をつかみ、私を部屋の外に引っ張り出しました。太って身長も高く、非常に威圧的な人物で、学生の事案をすべて握っているという力を誇示しているようでした。万事休す。恐怖で体がすくみました。紹介状がなければ日本へ行かれません。涙が流れました。

ふと「大学生が留学できないのは本当だろうか」という疑問が頭をよぎりました。思い立ってすぐに、日本に留学した経験があるという大学の先生を訪ねました。その先生は国費留学でしたが、「国の政策では、4年生になる前までなら私費留学はできるはず」と教えてくれました。何年か前に新聞で告知されたと言うのです。

ならばその政策が明記されている新聞を探し出さなければと思い、大学図書館で司書をしていたおじいさんに「一緒に探すのを手伝ってほしい」と頼みました。4年生になってしまう前に、何とか間に合わせなければ! 時間はそう長く残されていません。顔見知りの彼は快諾してくれました。それから約1週間というもの、放課後になると、閉館するまで手分けして、目を皿のようにして新聞の山をひたすら読んではめくり続けました。いつごろの新聞かも分からず、気が遠くなる作業でした。

■勇気を出して学長に直談判

あきらめてはならないとの気迫で、それを見つけ出しました。3年ほど前の日付で、新聞紙はすでに黄ばんでいました。私はついに、証拠を手にしたのです。この新聞記事をポケットに入れ、学長に会いに行こうと決めてお弁当を食べました。学長に直談判するという賭けに打って出たのです。

学長の執務室をノックしたとき、彼は在室していました。自己紹介し、大学の紹介状がなければパスポートが下りない、どんなに頼んでも書いてもらえないという窮状を正直に伝えて、「助けてください。私に機会をください」とすがる思いで訴えたのです。そして記事を見せて言いました。「留学できると、国の政策は言っています」

学長は話を聞いてくれ、新聞を確認した後、静かに言いました。「心配しないでよい。私が支援するから。さあ、午後の授業に行きなさい」

今度は、安堵の涙が流れました。「ありがとうございます。ご恩は一生忘れません」と言葉を絞り出しました。ひざまずき、感謝したい気持ちであふれました。中国語で「貴人」(人の人生を左右する、本当に得がたい恩人)と言いますが、まさにこのような人のことです。何千人いるうちの一学生にすぎない私を理解してくれたのです。

学長の言葉通り、すぐに紹介状が用意されました。彼の気遣いでしょう、学生課を通さず、クラスの担任教授から手渡されました。それから1週間くらいでパスポートが発行されたのです。

3カ月間、学生課と押し問答をして精神的に参っていました。それでも「人事を尽くして天命を待つ」――これ以上私にできることは何もない、そのぎりぎり限界まで努力した後は、もう悔いは残らない――ことの大切さは、骨の髄まで染み込みました。馬英華はあきらめない。死ぬ気で努力すれば、道は開けるという信念をずっと持ち続けています。それでうまくいかなければ、納得がいきます。

振り返って思えば、留学経験のある先生に聞いた「3年生までなら私費留学できる」という情報、それを明記した新聞記事、さらに学長の理解と支援、どれが欠けても日本へ来ることはかないませんでした。一つひとつ奇跡としかいいようのない出来事が幾重にもなって実現した留学ですから、日本での生活を一瞬たりとも無駄にできはしません。なんとしてでもこのチャンスを生かし、努力し続けるという私の力の源になっています。

そして手にしたパスポートは、人生のパスポートでもあったのです。

お気軽にご連絡ください。いつでもお待ちしています。03-3662-1139営業担当 椎橋(しいばし)恒成(つねなり)佐藤(さとう)がご質問にお応えします!!

受付時間 9:00-18:00 [ 土・日・祝日除く ]

お問い合わせ